【夢の続きが始まりました】石川善一

2000年、歌手デビューが決まった直後まさかのレコード会社倒産。 挫折から22年の時を経て 夢の続きが始まった。 元、学童保育指導員シンガソングライター。 ノンフィクション自伝小説

「 夢の続きが始まりました【第二章 (願い) 】」


2022/7/17
石川善一51才です。


2000年10月にタウンニュースの「人物風土記」に取り上げてもらいました。
歌手デビューできるかどうかの記事の内容でした。
その時の記事をまず見てください。

当時私は29歳でした。
記事の中にあるオムニバスアルバム「心音002」は
とっくに廃盤。
売れなかったアルバムですが
タワーレコードと紀伊國屋のネットショップでは
まだ売られているようです。
 
当時このアルバムが発売され、反響のあった曲が
シングル発売される事になっていました。
 
発売元 : センチュリーレコード
販売元 : ポニーキャニオン
 
私と、もう一人が選ばれ、正式デビューの話になり
シングルのカップリング曲を選んでいた矢先
センチュリーレコードが倒産してしまいました。
プロデューサーやスタッフも何も知らなくて…。
私も一緒に弁護士会に行って相談しましたが…。
………………………………  
その後は応援してくれていた友人に声をかけ
本厚木駅、近辺にあったライブハウス「FUZZY」に出演し、
仲間内で盛り上がるイベントをしていました。
中学生、高校生に成長した学童時代の生徒も、
保護者と一緒に来てくれました。
半分、同窓会です。
 
しかしライブハウス「FUZZY」が閉店した2003年10月を最後に
新曲も作らなくなりました。
その時私は33歳です。
 
それまで作ったオリジナル曲は20曲ほど。
作詞、作曲、編曲、歌、レコーディングを
シンセサイザーを使い全て一人で製作し、
自宅でレコーディングをしたもので、当時はMDに保存していました。
著作権はレコード会社にも渡していません。
 
デビューの為に仕事を辞め、歌の夢もやぶれ
派遣社員になり、這いあがれないまま22年がたちました。
 
派遣で転々とする中、研究が好きな友人と出会い
MDに保存したオリジナル曲はCDに変換してもらえました。
その時わたしは37歳でした。
 
派遣社員として生活していくだけで精一杯。
中年になって夢を語ってる場合でもなく…
ただ若い頃、懸命に作った楽曲がCDとして手元にある。
それだけでどんなに嬉しかった事か。
CDの表紙を作り、100均でCDケースを購入し
友人たちに自分のCDを配りました。
それで私の音楽人生は完結できたのです。
 
20歳で買いそろえたシンセサイザーは劣化し使えなくなりましたが
10年以上捨てられずオブジェに…。
今はもうふっきれ廃棄してから数年がたちます。
 
でも…音楽人生完結したはずなのに…
やはり一人でも多くの人に聴いてもらいたい。
情熱を持って作った楽曲たちは我が子のようなモノ。
自己満足になりさがってしまったオリジナル曲たちを
不憫に思う時もあります。
でももう芸能界を目指す熱意もなくなっているのです。
………………………………
現在51歳。
ひょんな事から…私の曲を審査してくれる会社と出会い、
結果、 配信を請け負ってくれる事になりました。


まずは5曲。
①初恋 ②バイクと恋人 ③母よ オパール ⑤True blue
 
実際に音楽配信サイトで配信されている事を確認できました。
各サイトで200円。
購入されれば、それは私の利益になりますが…お金ではないのです。
我が子のような楽曲たちが誰かに届く。
それが嬉しいのです。
自宅に埋もれていたオリジナル曲が世界のどこかで聴いてもらえる。
私自身ではなく曲が評価してもらえる。
 ………………………………
YouTubeでの再生回数 →
→ スポンサーからの利益は請負会社に入ると思われます。
それでもYouTubeを見てほしい。
 聴いてもらう事が私の夢。
22年を経て夢の続きが始まりました。
 
ただ … 石川善一 … 誰も知りません。
検索すればヒットするのに…
私の夢を手伝ってもらえませんか。
 
学童保育の先生をやっていた時の生徒(小学生)は
現在29歳~43歳になっています (2022年現在)
学童保育は8年務め、関わった生徒は500~600人。
あのとき 「先生は歌を頑張るよ」 と言った約束を果たすには
知ってもらう事が必要なのです。


(配信先の詳細は【第一章】参照してください)







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